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2006年1月30日(月曜日)

山田知事曰く・・・

カテゴリー: - 早川まさてる @ 09時55分56秒

 28日(土)に、いつも参加している自民党京都府連の勉強会で、山田知事のお話を伺ってきました。

 「これからの地方分権と府政の展望」というテーマで2時間弱。オフレコ話もたくさん聞かせて頂き、非常にわかりやすく知事の人柄のよく分かる講義だったと感じました。

 

いくつかピックアップしておきましょう。

 1)「会議と計画は嫌いだ。5年10年後を見通して、今、何をやるのかが大切だ!」

  全くその通りだと思います。これからの時代の流れ、大局観を持ちながら、今すぐ動くことが求められます。誰が見ても賛同できる大まかな改革の方向性は6、7割はできあがっています。これを完璧?なものにするのに1,2,3年かけて、それができてから動くのでは遅すぎます。当たり前に必要になることは、今すぐ始めればよいのです。注目されている自治体はほとんどこういう動きをしており、検討に時間をかけているところは大体先送りするうちに時間切れになると私は見ています。

2)「全国初で、人件費総額キャップ制を採用し、公債費+普通建設事業費を原則H17年ベースに抑制する。」

 人件費を一律10%カットするやり方はよくあるが、見ていると、数年で元どおりに戻ってしまう。人件費総額を5年間で12.8%?下げる方針を打ち出すことで、実質的な削減を行うということでした。また、公債費+普通建設事業費で抑制するという考え方は、借金返済が減れば建設事業費が増やせるということで、とりあえず借金をして事業を進めてしまうという今までのやり方を自動的に抑制する効果が期待できるわけです。 山田知事の、あまり派手さ?はないが、仕組みの根っこを考えて、実体としての効果をねらってゆく考え方がよく分かると思います。

 3)改革の方向性は、「中央集権→地域主権」「配分型行政→協働型行政」「要望型行政→対話型行政」に向かっており、顧客(府民)のための行政が、今、問われている。

  知事の明確な考え方として、府政をこのような形に移行してゆこうとされているということは、府と市町村の関係や事業の要望?も、このような路線に合致しないものは受け入れられない時代になってゆくということだと考えます。もちろん、現在すべてが切り替わっているとも思いませんが、そうなってゆくだろうし、そういう理念に基づいた施策は府もいち早く採用してゆく時代になるという事です。 

4)「これからの京都を作るのは教育だ!」

  知事は、京都の地域力を高める4つのキーワードということで、「1.連帯力 2.地域競争力 3.発信力 4.地域経営力」をあげておられます。いずれも、人が育つ、良い人材がいるということが必要です。そのなかで、教育の重要性を深く認識しておられるということです。 気になる話がありました。今回の公務員給与改定の中で、都市部と京丹後市では教員の給与が1割近く違ってしまうらしいのです。私は知事に「京丹後市の教育はほとんど全てが公教育(私立がない)に依存しており、公立学校の教育レベルがほとんど全てを決めてしまう。その中で、都市部出身の新人教師が京丹後などで実践を積み、力が付いたら都市に戻ってしまうなど、教師の中堅・新人人材確保に大きな課題がある。これに加えて、都市部との給与格差が付くと、さらに質の良い教師確保が難しくなるのではないか」という質問をさせて頂きました。 知事は「すべてが京都市内に集中すると、一時的には良いように思えても、結局しないもだめになる。そのあたりを理解してもらって、良い人材を回すなど、積極的な対応を取る必要がある。」とのお話を頂きました。

  我々の抱えている課題を自分たちの問題意識で整理し、私たちが創ってゆきたい京丹後市の姿を描きながら、府に提言し、一緒に力を合わせてゆくことの大切さを感じます。こちらが本気で力を付け、動き出さねば「協働」という姿は見えてきません。府ががんばるほどトップダウンになってしまいます。

  さて、これから行財政改革特別委員会の研修で、犬山市に行ってきます。「そんな研修に行っても価値はあるのか・・・」といわれないように、がんばってきたいと思います。 


2006年1月26日(木曜日)

一般質問原稿その後

カテゴリー: - 早川まさてる @ 09時57分25秒

 昨晩、議長より電話がありました。内容は、「一般質問原稿につける写真・図を写真のみにすることに代表者会議において決定したので、早川の出した図をセクハラ防止要項の書類の写真に差し替えることを了承してほしい」というものでした。
 携帯で受けたので、記憶が正確ではないのですが、「議会広報は議会の内容を正確に伝えるもので、各議員の意見発表の場ではない」「議会での発言以上の内容を図表で表現したら、600字の文字数制限で文章を書いているので公平性に問題がある」という様な趣旨の発言が代表者会議であったということでした。
 今回、図表を用いたのは合計4人いたそうで、それぞれ写真に変更ということで了承されたそうです。

 先日お伝えした、私の一般質問原稿変更は、1)私としては変更を求める根拠を聞いた上で、一般質問原稿として問題ないと判断し、2)最終発行責任者である議長が代表者会議の意見をふまえ、原稿の変更がない場合は、編集権限で変更するという決断を正式に表明し、3)早川が自主的に原稿を変更する というプロセスを経ました。

    
経緯はこちら 議会広報一般質問原稿について(1/6発行分)

 今回は、上記のように編集方針を変更したという通達ですので、私が現時点で個人としてのせたいだとか、のせるべきだとか言っても始まらない次元ですので、「了承するだとかしないだとかという話ではないですね。伺いました。」という対応をさせて頂きました。

 編集上の問題として、読みやすい紙面にするためには、文字ばかりでは読みにくく、写真などを適度に組み込むことは当然必要です。また、文意をより深くわかりやすくするために、図示したり、参考データを配置することは、これまた当然のこととなります。一般質問以外の部分で、データを加工して市の財政を家計に喩えたり、図示することは、今までも当然行ってきました。

img43c307504afb3.jpg 一般質問部分については、議論はありつつも、写真に加えて図表も用いられてきたことは事実です。どこまでが一般質問の内容範囲内かということは、厳密に言うと非常に難しい。(今回私が作成した図は、ほとんど発言の文章そのままの内容で、逸脱する部分はないと考えています。)
 写真でも、基本的には図表よりもはるかに情報量が多く、一般質問の発言内容を超えない写真というものは、原理的にはあり得ません。図表も、もちろん全く関係ないデータをのせておくなどということが適切とも思えません。判断の幅は、真っ白真っ黒よりも、グレーゾーンが非常に多い部分となることは間違いないでしょう。そのグレーゾーン内でどのようなものを作り、出してくるかは、それぞれの議員の良識、判断に依存する部分が大きいことになります。そして、あまりに逸脱しているというものは、編集委員会なりで調整してゆくというのが、写真・図表ともに今までのプロセスであったかと思います。
 こういう場合に、真っ白(といっても、それも本当は難しい。厳密に極論を言うと写真は情報量が多く、論理的でない分、けちをつけようと思えば何でもできてしまいます。)以外はやめてしまうという判断もあり得ます。今回は、それを選択したわけです。

 しかし、今、議会として本当に考えるべき切り口は、1)市民に広報を発行して議会の様子を伝えるということはどういう事か。市民は何を知りたがっているのか。2)市民が住民自治の担い手として、自ら考え始められる情報を如何にわかりやすく伝えるか。という事ではないかと、私は考えます。もちろん、全ての機能が議会広報誌にゆだねられるべきものではなく、議会のホームページや各議員の活動も含め、役割分担をするものだと考えますが、議会広報を出す意味合いや効果は、当然検討されるべきだろうと思います。

 議会や広報誌、一般質問とはこういうものだと(従来の延長でとは限りませんが)形を定め、形からの検討をしてゆくことが必要な場合もあります。そして、それに加えて、この京丹後市をよくするためには何が必要なのか、そして、そのためには、議会や広報誌は一般質問はどのような機能を果たすべきか、果たすことができるのかを考え、自らの形を革新してゆく。こういう事が求められる時代なのではないかと考えます。「保守したくば、革新せよ!」です。

 本質を見る目が求められます。今何が問題なのか、本質を捉えようと目をこらせば、本質に目をつぶるために細部を問題にするやり方や動きは、一目瞭然に分かるはずです。一目瞭然です。

 悪質なもの以外は過去は問題にしなくていい、今からの動きを判断材料にすればいいと思います。市政が、議会が、一歩踏み出すかどうかをきちんと見守る市民。一歩勇気を持って踏み出せるように後押ししてバックアップする市民という存在が、とても大切な段階に入っていると考えます。


2006年1月23日(月曜日)

登校拒否、難病、大検、難病、そして・・・

カテゴリー:
    - 早川まさてる @ 11時03分10秒

     先日、ずーっと昔に家庭教師をさせて貰っていた方のお見舞いに行ってきました。

     もう、12,3年前になるのですが、友達との人間関係から登校拒否になった時にお手伝いをさせて貰いました。何ヶ月かかかって彼女の色々な想いを聞き、一緒にKJ法というやり方でまとめる中で、何かがかみ合ったのでしょうか、登校できるようになりました。
     しかし、1年ぐらいたってからだったでしょうか、再び登校できなくなりました。そして、彼女は大学検定を受けて、ある有名私立大学に合格したのです。それも受験直前に、神経にウイルスが入って全く身動きできなくなるという難病にかかり、鉛筆がもてるんだか、もてないんだかと言いながらの受験でした。ほんとによく頑張ったと思いました。そして、「この厳しい経験がきっと活きてくる、将来にあなたが何かをなすための経験だと思う」と話をしたのを覚えています。

     数年前に内閣府が行った防災ボランティアシンポジウムのパネラーをした時、彼女が訪ねてきてくれて、カウンセラーの勉強をしていると聞き、やっぱりなぁ、そういう流れになったんだなぁと思っておりました。

     そして、数日前、彼女が再び例の難病になり、入院していると聞き、会いに行ってきました。1ヶ月近く話すこともできない(体中の筋肉が動かない・・・)状況だったが、何とか話すことができ、手も少し動き始めたところでした。検査が途中で入り、15分ほどしか話せなかったのですが、本当に喜んでくれました。

     彼女は2カ所の学校のスクールカウンセラーを受け持ち、がんばっていたそうです。自分が体験したことを元に、子供たちの話をじっくり聞き、親身になって活動してきたのだろうと想像します。

     一ヶ月間も体が動かなくなるという状態は私には想像できませんが、本当に精神的には厳しい、追いつめられた状況だろうと思います。が、私は彼女に、その経験はきっと糧になるということを少しだけ伝えてきました。(もちろん、回復の兆しが見える状態だったので、気楽に??言えた面もありますが・・・。)2度の登校拒否、大検、2回の難病体験。なかなか望んでも体験できることではありません。彼女にはその大変な経験から育つことのできる力と縁の力があると、私は思っています。

     悪い事態が起きたときに、厳しい中でもそのことをどのように受け止めることができるか、これがとても大切なことだと思います。私の父は胃ガンで亡くなっている(在宅ターミナルケア)のですが、そのガンが発見されたとき、状況の全てを父に話し、みんなで取り組むことができました。もちろん今から思うと、あれもこれもできなかった、不十分だったということは尽きないのですが、家族の絆が回復し、深まってゆくことを経験しました。

     個人のレベルでも、地域でも、京丹後市のレベルでも、似たような側面はたくさんあります。悪い状況に巻き込まれてしまうのか、知らないふりをするのか、事実は直視しながら前に向かって進もうとするのか・・・。

     また、彼女のところに顔を出してこようと思います。今度は私がたくさんのことを学ばせてもらうことになりそうです。


    2006年1月20日(金曜日)

    久しぶりの個人折り込みチラシ完成

    カテゴリー:
      - 早川まさてる @ 00時13分21秒

       先ほど、久しぶりの個人議会報告チラシの印刷が完了しました。

       網野町時代は5800枚程度だったのですが、京丹後市全域は22050枚!本当に一桁違います。両面印刷なので、4時頃からほとんどぶっとおし回し続けて8時間。原稿、版下、印刷。一人でほとんど全てこなすのですが、40を過ぎるとさすがにこたえます。

       実は、昨年中に出すはずだったのですが、事務所の引っ越し作業(6年間の垢を捨てて、捨てて、捨てて・・・、のシンプルに戻る象徴的作業だったかもしれません。)も重なり、今になってしまいました。

       原稿作りは、私の場合は文章にほとんど生身の人間が出てしまうので、夫婦げんか(^^;;の合間を縫いつつ、できるだけ心境のいいときに作ろうと心がけています。というか、そういうときしか文章が出てこないので、機が熟し、追いつめられた(というか追いつめた)瞬間をねらって取り組む次第です。

       今回作り終わって、京丹後市と日本全体の状況がリンクしている事をひしひしと感じました。小泉首相の「保守したくば改革せよ!」という言葉。ライブドアのことや、強度偽装問題。正に「国家と品格」が伝えようとしていたことが、日本全体、そして、京丹後市に起きている。そのなかで、私たちが、今、どう動くかで時代を変えることができる。その大きな流れの一部を担えたらおもしろいと思いませんか。気が付いている人たちも増えてきているようですね。

       土曜日、新聞折り込みの予定です。是非、お読みください。(例のごとく、文字だらけですが・・・。)


      2006年1月16日(月曜日)

      12月一般質問と創政会解散

      カテゴリー:
        - 早川まさてる @ 21時42分33秒

         12月一般質問と創政会解散との関係


         市民の方から「12月一般質問と創政会解散との関係」についておたずねがありました。会派内の状況も関わることであり、無節操に公開するのが良いとも思えませんが、議員とは、議会とは、市政とは何かを考える題材でもあり、最小限の差し障りですむ部分のみ、私の責任で書かせて貰います。できるだけ配慮は心がけますが、どうしても私からの見方が強く反映されます。鵜呑みにしないで、早川はこう見ているのだなと、冷静に読み取って頂けたらと思います。少し長くなりますが、お付き合いください。

        事前の調整
         一般質問の内容について、会派内で議論があったことは事実です。「一般質問でもあり、かまわない。押さえるべきでもない」という意見もありましたし、「完全に反市長の会派と見られるようになる。施策を市長に伝え、実現できないと困る」「市長のプライベートな問題であり、一般質問にふさわしくないのではないか」「裁判所で係争中のものであり、議会で取り上げると影響を与える」・・・・などの意見もありました。(この件に関しては、後ほどきちんと検証します。)

         それらの意見は十分に聞かせて頂いた上で、一議員としてなすべきことと会派の一員としての立場を考慮し、質問内容を精選し、公私の区別、市民・職員・議員との信頼関係という切り口に絞った次第です。(ただし、私の場合は、質問の骨子をメモで作る程度であり、事前には質問の細部や展開は自分でも分かりません。最初の切り口を投げかけ、それに対する答弁を受けて、質問を深めさせて貰っているので、答弁内容によって進む方向性は大きく変わることがあり、また一般質問等を私個人のホームページや議会報告などでお知らせすることは、当初より確認・承認してもらっています。)

        幹事長を降りる
         一般質問終了後の16日、会派の会合があり、一般質問の内容(特に最後の私が体験した事実の表明が、表面的には問題となったと考えています。)を受けて、「実態はそのままでいいので、幹事長を降りて貰えないか」という話がありました。私としては、それでまとまるのであればよいので、「実態も含め、下りさせて貰い、1メンバーとして活動させて頂く」ということを表明し、みんなでがんばっていこうという話になりました。

        急転直下の会派解散
         その後、議会最終日の22日に、再度会合が開かれ、「会派を離脱してほしい」という申し出を受けました。その際に、「早川を孤立させろという指示が出ている」「後援会の集まりで徹底的に言われた」「ホームページでの一般質問の解説やちらしが一番こまるといわれている」「君の将来にとって・・・」などの話を聞かされています。もちろん、外圧だけでなく、それぞれの議員さんとして、一般質問の内容などが会派のスタンスとして困ると判断された方もあるようです。(これはこれで、全否定はいたしません。議員活動としての古くからのスタイルがそれぞれあるからです。ただし、今の時代の大局観として、議員という立場を預かるものとして、どのように行動するのが京丹後市の発展に一番寄与できるかという観点からの整理、調整が必要だとは思います。)
         私は、「会派設立の趣旨(是々非々できちんとチェックし、政策提言を行ってゆく)からしても、許容範囲内、むしろ求められることであり、自分からやめるという理由がない。その理由があるのであれば、それをきちんと公開前提で文書で示してもらえたら、自ら退く」とお伝えしました。

         26日、広報編集委員会。各議員からの一般質問原稿がほぼ出そろう。
         27日。会派代表・副代表から「もう限界であり、会派解散を選択したい」との連絡があり、承諾。
         28日、解散届提出。緊急の広報編集委員会にて、委員長より「議事録通りで内容には問題ないが、臨場感があり、生々しすぎる」ということで、一般質問原稿内容変更の依頼。

         あとは、先日のリポートでご報告したとおりです。なお、広報編集委員と議会運営委員会の辞任については、これらの委員会へは、会派への人数の割り当てがあり、会派として委員会に参加しているという仕組み上、会派解散に伴って辞任したものです。

         
        これから本質的な意味でモノを言うのは大変・・・
         以上が、創政会解散に至る大体のプロセスです。なお、26日ぐらいからの動きは、私にはあまり伝わってきておらず、よく分からない部分が多いのが正直なところです。
         会派としてのまとまりを超えて動くなど、私の今回の動き方についても、会派内で集団として動くスタイルの方にとっては、私が思う以上に違和感があった面もあるのだろうと思っています。また、保守系として、市長与党でなければ云々という段階を(反市長がいいなどという意味ではもちろんありませんが)超えられないステージのまま、新しい時代の保守というスタイルを創り上げる前に、このような大きな問題を抱え込んだということかもしれません。

         余談ではありますが、それにしても議会外からの働きかけも含めて、このような力が働いて来るというのは、なんともすさまじい状況です。私が口を閉ざしたら、保守系できちんと指摘のできる人が出てくるのかどうか、不安な限りです。意向に反して口を開いた者たちを猫踊りか血祭りに上げてしまったわけですから。これからは、表面的な内容のつっこみはあっても、本質的な意味でモノを言うのは大変でしょう。

        本当の問題は別にある。見失ってはならない!
         さて、問い合わせ頂いた内容をまずお伝えしましたが、本当の問題は、別にあります。どんな取り組み方も100%満点の切り口であることはほとんどありません。10%、20%の不十分な点に目を向けて、本当に大切な80%の本質を見失ってはならないのです。(逆に言えば、その本質を見えなくするには、10%の不十分な点を延々と指摘し続ければ良いのです。)

         今回の一般質問のテーマはセクハラ問題ではない。もっと根深い本質の問題だ


         私の今回の一般質問は、市長のセクハラがあったかなかったかをテーマにはしていません。公人としての、市のトップとしての公私の区別、業者からの要望を受けるにあたってのプロセスの公正さ、市のトップとして職員に求めている内容と自らの行動のずれを指摘し、信頼回復のためにそれらの修正を求めることがテーマでした。

         そして、質問全般の総括の中で、それらが全く受け入れられなかったことを受けて、最後に私の体験した事実を最小限の内容で表明しました。質問ではありませんでしたが、私からの一方的な話にならないように市長が何か言いたいことがあればということで場を提供したところ、最後のような答弁が行われたと言うことです。(一般質問においては、原則理事者は質問に答える形でしか意見表明できません。)

         よく他の議員さんからふさわしくないと指摘されるのは、この部分に対するものです。「この部分は、裁判所でするべきことで、私的なことであり、係争中の問題なので、一般質問には馴染まない」という内容です。

        私的なことだから不適当?
         まず、1)私的なこと という指摘に関しては、確かに、<家庭内争議、隣地境界争い、・・・>などという内容であれば、公的な場である議会で取り上げるというのは、通常扱うべきではないと私も考えます。しかし、私的な事柄であっても、立場・内容によっては、飲酒運転などのように、公人として責任を取るべき対象となることはあります。

         今回の事件は、市から多額の補助金を受け取っている団体が来賓として招いた場で、制服を着た職員に対する出来事(あったかなかったかは別の話としてです。)であり、ましてや市の顧問弁護士を(費用や契約は別であったとしても)使っての裁判となれば、議会で扱うべき範疇と私は判断します。
         なお、市長は11月11日に職員に対して発令したセクハラ防止指針において、「セクハラの態様等によっては信用失墜行為、国民全体の奉仕者たるにふさわしくない非行などに該当して、懲戒処分に付されることがある」ことを明示しています。これはセクハラが飲酒運転などと同等の責任を伴う問題である場合があるという認識を示しているものです。

        係争中の問題だから不適当?
         次に2)係争中の問題である という指摘です。これは、い)調査をする力もないので、裁判の結果を待つしかない。 ろ)裁判の内容に影響を与えるので避けるべきだ。 という内容の様ですが、そもそも6月の時点で調査をした他会派の保守系議員が疑問があることを表明し、「信頼の回復を求める決議」採決の際に退席しています。自分の足で歩けばそれなりには分かるということです。
         現時点では、市長が反訴状などを助役を通じて議員に配布するなど、すでに、双方の主張は明らかになり、私も公式に表明したのですから、やる気になれば、(私的な責任を問う裁判上での有罪無罪は別として)公的な責任についての調査は可能だということです。ろ)に関しては、逆はどうなのかという話になりますが、裁判は、どうあれ公正に行われるはずということで、言及しません。

         一見、係争中の問題だから議会には云々、という話はそうかな?と思える面もあります。しかし、たとえば贈収賄や汚職などの問題が発生した場合、議会が「係争中の問題だから、裁判結果が出てから・・・」などという対処をしたら、市民は怒るに違いないと思います。ということは、市民感覚から言うと「係争中の問題だから」という理由は理由になっていないということでしょう。そして、そんな理屈できちんとチェックを行わない理由付けをするのは、議会というシステムに対する自爆テロならぬ「自縛テロ」(自らの権能、役割を自らできないように縛り付けて自爆する)ではないかと考えます。双方の主張が明らかになっていなかった6月9月は、何とか許容範囲かもしれません。しかし、今の時点での状況は、そのころとは別の段階に入っています。

        一般質問には馴染まない?
         そして3)一般質問には馴染まない という部分です。これは、一般質問最後の「私の体験した事実を表明」した部分についての指摘だと解釈します。(表だっては、「前の部分はいいのだが、最後が・・・」という指摘しか聞いたことがありません。)
         これについては、「2次会には同席しており、また、4次会の会場から同僚女性にかかってきたヘルプ電話に直接出ており、同僚議員と共に女性を帰らせるように対応を行った」公人であるという私の立場の特殊性が関係します。そして、その内容はまともに市民の人権・尊厳に関わります。黙って推移を見守るのがふさわしいのか、最小限の事実表明を行うべきなのか、徹底して調査も含めて行動を起こすべきなのか。。。 本当に難しい判断だと思います。どちらにしても私にプラスはありません。

         様々な質問と答弁の積み重ねの中、最終的に総括のまとめの中で表明する形となりましたが、一般質問という場は可能なのかどうかについては、可能だと考えます。ふさわしいかどうかについて、モラル?イメージとしての話はありますが、不可という話は聞いていません。制度として可能な範囲(シロ+グレーゾーン)における、モラル、センス、重要性の判断であろうと考えます。(市長は、議員としての見識を疑うと議場で発言されておられます。判断は市民にゆだねればよいと思います。)私の判断が他の議員さんに比較して、現場を一部直接知っているということの中で、責任上、きびしい判断に傾く傾向にあるということは否定しません。それで良いと思います。その中で、自分なりの議員としての責務を果たすために、リスクを背負って、言うべきか、言わないべきかの判断をあの瞬間に下したということです。

        この問題の放置は、京丹後市の将来に致命的な影響があるのではないか


         正直言って、私もこんな内容の質問をしたくはありません。6月も一般質問をやめ、9月も別のテーマで行っています。しかし、その間の経緯をみると、問題はすでにセクハラレベルではなくなってしまっています。セクハラ問題をきっかけに、非常に根の深い大きな問題を生み出してしまい、それが市民の人権・尊厳に大きく関わり、市政の体質、議会のチェック機能、市民や職員との信頼関係はもとより、府・国との信頼関係にまで影響が広がってしまったといわざるを得ません。これを放置しておくことは、京丹後市の現在、そして将来に致命的な影響を及ぼすのではないかと懸念します。

         理屈が多く長い文章になってしまいました。本当は「そんなことは議会で取り扱ってさっさと決着つけるのが当たり前で、そのために議会、議員がチェック機関としてある」の一言で終わりたいのですが、深く掘り下げない表面的な見方が出回るだけでは、市民も議員も混乱します。議論のステップを提供する意味でも、一度きちんと理屈をこねておきます。内容がおかしいと思われれば、裏ではなく、公開の場で(私宛の無記名フォームメールでもいいですよ。)指摘をして頂けたらと思います。正々堂々と市民のためにやりましょう。
         それなしに、裏でごそごそやっている話は、その程度のものだと、聞かれた方は思っていてください。そしてその裏にある意図を読み取って頂けることを期待します。

        12月一般質問の動画が、京丹後市ホームページからご覧頂けます。是非見てください。


        2006年1月15日(日曜日)

        「だから改革は成功する!」

        カテゴリー:
          - 早川まさてる @ 23時24分16秒

           ちょっと前になりますが、1月9日、自民党の京都府連青年局の役員会・成人式街頭行動に参加してきました。京都市の成人式。あふれんばかりの新成人でしたが、思いのほか着物の若者が多く、うれしく思いました。(写真の左隣は井澤京子衆議院議員)
           突然でしたが機会を頂き、街宣車の上からお祝いのメッセージを述べさせて貰いました。「23年前の自分が二十歳の時、インドを1ヶ月半、極貧の旅をした。異文化に触れ、強烈なカルチャーショックを受ける中で、いろんな価値観、生き方、地域、常識があることを感じた。若い頃のその経験が、40代になった今の自分が政治家となっていることにもつながっている。たくさんのチャレンジをして、多くの出会いをして、自ら考え、行動できる自分を育ててほしい。」という趣旨の話をさせて貰いました。多分、ほとんど誰も聞いていないのだと思いますが、私が若者に伝えたい核心の部分であります。

           さて、その帰り、本屋をふらふらしていたら、一冊の本が目に飛び込んできました。「だから、改革は成功する」上山信一 ランダムハウス講談社1600円 です。上山さんは大阪市の改革に参画されています。以前から上山さんの活動は気になっており、行政経営フォーラムにも参加させて貰ったこともあったのですが、タイトルも惹かれるものがあり、思わず購入してしまいました。

          読売新聞 <市は、来年度まで2年間を目標に設置した市政改革本部の民間本部員に上山信一・慶応大教授ら7人を決定。大平光代助役と上山教授らを中心にした「推進連絡会議」が改革の課題と方向性をまとめ、事実上のかじ取り役になる。>

           非常にわかりやすくポイントをまとめてあります。ちょっと引用してみましょう。

                P.21 <改革の本質はこれだ>
          引用:

           さて「改革」が改革たるゆえんは、いったい何だろう。私は次の3つが改革の本質だと思っている。次の3つを満たさないものは、そもそも改革とは呼べないと考える。

          改革の本質  峅革」と「改善」は違う  
            改革と改善はどこが違うのか。改善は規定の、つまり日常の戦略と組織の中での努力だ。ところが改革はこれまでの戦略、組織、そして仕事のやり方そのものを否定する作業だ。

          改革の本質◆〜反イ梁亮舛修里發里鯤僂┐
            改革と言うからには、今後の予期せぬ環境変化に素早く対応できる組織へと体質そのものを変えなければならない。

          改革の本質 組織の存在そのものの否定も考える
            改革には声域もタブーもない。場合によっては組織そのものを解体、あるいは身売りするといったことも手段として考えなければならない。

           かなり厳しい響きもありますが、業務改善のレベルを改革と思いこんだりすると、取り返しがつかない時代に入っていると思います。一気に進むことが困難な場合も、自分たちのしていることがどのレベルのことなのか、きちんとわきまえることがとても大切でしょう。特に若い人たちには、読んでおいて欲しい本です。いや、中堅の人も、管理職の人も・・・。


          2006年1月11日(水曜日)

          プログラム復旧完了!!

          カテゴリー:
            - 早川まさてる @ 22時16分04秒

             やっと、プログラムの復旧が終わりました。

             ブログのプログラムを最新版にしようとして、アップデートをかけた際、なにかの不手際があったようで、全く表示されない状態になってしまいました。ややこしいことになりそうだったので、サポートを依頼したのですが連絡が付かず、今日の昼に手をつけたところ、さらに事態が悪化・・・・。こりゃだめだと諦めて、網野町商工会の新春講演会に行ってきました。

             6時頃から、これは自分でやりきるしかないと腹をくくり、アップデート前の状態に復旧させるために、バックアップデータでリストアしたところ、他のデータまで影響が及んで、さらに悪化。

             このホームページはxoopsという無償のホームページ管理プログラムで動いているのですが、観念してその裏方のmysqlというデータベースプログラムのデータを一つずつチェックして、欠落したり文字化けしたデータを入れ替えて、やっと、やっと、復旧が完了しました。

             10数年前、リレーショナルデータベースを少しかじったおかげで、概念はだいたい分かるのですが、どう操作したら動くのか、よく分からず苦闘4時間、なんとかクリア。ほっとしました。

             なんでもそうだと思いますが、基礎技術を持っていれば、状況も理解できるし、自分なりの応用、発展をいろいろと考えてゆくこともできます。限界も把握しておくことができる。しかし、ブラックボックスになっていると、お任せモードになったり、ぼられたり。

             食べるということも、コンピュータに関することも、全部は到底できないですが、どこかを根っこまでさかのぼって理解、身につけておくことはとても大切なことだと、改めて思った次第です。

             


            2006年1月10日(火曜日)

            公人としての政治倫理の図(1/10発行分)

            カテゴリー:
              - 早川まさてる @ 20時50分53秒

               「公人としての政治倫理の図」を作成しました。議会広報の一般質問原稿にするためのものですが、ご紹介しておきます。
               企画書など、図を用いて説明することの重要性が認識されるようになってきましたが、言葉ではわかりにくい問題が図にすると非常に明確に表現できることがあります。今回は、法や制度を遵守することと、公人としての政治倫理の関係について整理しましたが、きれいに論旨を表現できたのではないかと感じています。

               私の場合は、論理的に考えてステップを踏んで考えがまとまるというよりは、問題設定をして、意識を少し背後に引かせて(意識のズームアウト?)、見ていると、パン!とイメージが浮き上がってくるようなプロセスを経ることが多いようです。人に話すための言語の論理は、そのあと付いてくる気がします。

              さて、本題の「政治倫理の図」です。 

               本来、法や制度は守るべきもので、その基準を守らなければ<クロ>であり、これは私人も公人も同じです。
               それに対して、倫理、公人としての政治倫理が、別の見方として存在します。私人はとりあえず法律・制度を守っていれば、一応認められるのですが、公人としては、私人以上に厳しい倫理・基準が求められます。これは、多くの人を代表したり、市民の生活を左右する判断をゆだねられていることによって起きてくることではないかと思います。

               公人は、私人よりも厳しい倫理を自らに課すことにより、市民は初めて公人としての権限を任せることができるとも言えるのでしょう。それができないのであれば、私人として活動すればよいのです。

               権限を持った人が、法律に反していないからとやりたい放題になってしまったら、品格のある状態とはとても言えないでしょう。同時に、全くシロのまま、すべてをやりつつけるということを求めるのも、なかなかに厳しいものがあります。

               だからこそ、大枠を法律で定め、社会がかちかちになりすぎないように、倫理(本来はお天道様に恥ずかしくないように生きるということでしょうか)をそれぞれが持ち、自律するということが必要になるのではないかと思います。その倫理を自ら課すことが期待できなくなるほど品格が下がると、それを法律や制度で外から規制するという情けない対処を余儀なくされるということではないでしょうか。

               考えて、整理を続けると、全く当たり前の、シンプルな話になってしまいます。「こんなことは当たり前だ。お前に言われるまでもない!」とお叱りを受けそうな気がしますが、こんなことの確認から始めなければならない現状を憂います。

               12月一般質問の <政治倫理と市長・市民・職員・議員の信頼関係について> はそのあたりの問題意識を前提に質問しています。再度ご確認頂けると幸いです。


              2006年1月6日(金曜日)

              議会広報一般質問原稿について(1/6発行分)

              カテゴリー:
                - 早川まさてる @ 20時45分38秒

                 議会広報に載せる私の一般質問原稿について、議長より説明がありました。

                 「先般の代表者会議においては、共産党を除く全会派(創政会は解散しているため、参加していません。)が、ふさわしくないという判断であり、本人が原稿を変更する意志がなければ、発行責任者として議長が該当部分を削る。」というものでした。

                 この判断は、白黒の間のグレーゾーンにおける判断であり、「削る」というところまでの判断を明確にしたところは、それはそれとして、いいことだと思います。(広報委員会も、議長との話も、公開を前提として確認し、話をしています。すっぱ抜きとかのたぐいではないので、誤解なきよう・・・。)今でも、載せてかまわない範囲の文章だと私は思っていますが、私の判断を含めた個々の判断、集団としての判断は、100%のものでもありません。何割かのメリットと何割かのデメリットのバランスの中での判断・決断となります。議会という集団の判断が、私の判断とは異なったものになったことは事実であり、私の判断が通らなかったと言うことです。そして、世間にそれを見せる形になっても、原稿を削ると決断したことは、ある側面としては、価値のあることだろうと思います。

                 というわけで、この件に関しては、先ほど修正原稿を議長宛に送信し、私は白旗を揚げることにいたしました。私も妥協なしに自分の意見をぶつけ、議長らもリスクを背負って決断されたわけですから、それはそれ、私の負け?であります。

                 なお、内容的には、ネット放映、議事録の公開など、すでに公となっている内容のままですので、私的なメディアで公開することは全く問題ないと確認できていますので、その原文など、以下に公開しておきたいと思います。(広報に載せられなかったので、腹いせにここに載せるなどどいう次元ではありません。あの短い文字数10字×66行で、あの一般質問を凝縮するのは、ほんとに大変なのです。まあ、こんな風に、原稿を作り、修正してゆくのかという参考までと思ってください。)

                第一次原稿

                問 市の顧問弁護士に市長の個人的セクハラ裁判を依頼したことに大きな違和感を持つ。
                市長 市とは別に委任状を交わし、お金の処理もしてきっちり対応している。問題ない。
                問 制度上OKでも政治倫理上すべきではないことがある。なぜ市の顧問弁護士に頼むという市民から疑問を持たれる選択をしたのか。
                市長 付合いがあり一番信頼できる素晴らしい方にお願いした。やめるべきとアドバイスした方はいない。
                      市民への反訴は職員との信頼関係に悪影響が(見出し)
                問 市長が反訴直前に発行したセクハラ防止要項で「セクハラを受けたと言う人が職場にいにくくなったりプレッシャーを受けるような行為はしてはいけない」とある。非常に強い立場にある市長から市の顧問弁護士を使っての裁判は如何か。
                市長 重い立場だからこそ、信用信頼というのが大きく何度も毀損されており、行為としてせざるを得なかった。
                      過ちて改めざる、これを過ちという(論語)(見出し)
                問 過ったことを改めることがなければ、これからの行政改革は成り立たない。非常に残念だが問題がないという回答ばかりだった。
                 私は2次会で市長が女性の髪の毛に触っていたことは目撃した。4次会から同僚女性へのヘルプ電話に出て、大変な状況で帰りたいという話を聞き、周辺にいた人に電話して帰らせる手配をした。セクハラの有無は裁判の場でされることだが、市長から市民への損害賠償請求は極めて残念。
                市長 今になってそんないい加減なことも含めて、どういうつもりで、こういう場で言うのか、あなたの議員としての見識を疑う。

                第二次原稿

                問  私は京丹後市は衝突コースに入ったのではないかと感じている。組織改革案も対症療法にしか見えず、これからの時代に対応できる行政のあり方、職員のあり方を模索した体質改善としての取組があまりにも少ない。また、市長と市民、議員、職員の間の信頼関係が崩れてしまっているように感じる。力のあるものが押さえつけるなどという方法ではなく、きちんと事実を見据え、改めるべきは改め、失われた信頼を回復してゆくしかない。
                 市の顧問弁護士に市長の個人的セクハラ裁判を依頼したことに大きな違和感を持つ。
                市長 市とは別に委任状を交わし、お金の処理もしてきっちり対応している。問題ない。
                問  制度上の問題ではなく、倫理的、政治倫理、政治家としてそれは適当かどうかに関してはどうか。
                市長 この件は倫理が特に問題になるようなことではなく制度として可能かどうかだ。
                問 制度上OKでも政治倫理上すべきではないことがある。なぜ市の顧問弁護士に頼むという市民から疑問を持たれる選択をしたのか。
                市長 付合いがあり一番信頼できる素晴らしい方にお願いした。やめるべきとアドバイスした方はいない。
                     市民への反訴は職員との信頼関係に悪影響が(見出し)
                問 市長が反訴直前に発行したセクハラ防止要項で「セクハラを受けたと言う人が職場にいにくくなったりプレッシャーを受けるような行為はしてはいけない」とある。非常に強い立場にある市長から市の顧問弁護士を使っての裁判は如何か。
                市長 重い立場だからこそ、信用というのが大きく何度も毀損され、せざるを得なかった。

                 今日は、ブログのプログラムを最新版にアップデートしようとしたのですが、失敗。情けないことにプログラムが動かなくなってしまいました。アクセスが急増する中、ご迷惑をおかけしますが、少し時間をください。


                2006年1月4日(水曜日)

                「モラル」のないエリートを育てるのなら・・・

                カテゴリー:
                  - 早川まさてる @ 22時12分24秒

                   1月4日付け朝日新聞に、立正大学の一面広告。「モラリスト×エキスパート、それが立正大学の輩出してゆく、人間像です。」

                   時代が変わってきているんだと感じます。逆説的に言うなら、そんなことをあえて言わねばならないほどモラルハザードになってしまっているのかもしれません。「品格」の問題も同じですが、ここに立ち戻ることが今ほど求められている時はないのかもしれません。

                   少し引用してみましょう。

                   —–今後、世の中で活きてゆく人。世の中からはずれていく人。—–

                  「モラルのないエリートを育てるのなら、立正大学が存在する必要はありません。自らを前向きに律する人、人の喜びや悲しみを想像し共有できる感性、そして大人としての基礎的な教養。これら一見当たり前に思えるモラルが、日本人にこれほど備わりにくい時代はなかったと思います。(中略)自分のことだけ考える実力者をもはやこれからの社会は実力者とは見ない。自分と周りを考え、その考えを行動に移すことができる人こそ、はじめて自分も周りも幸福にできる。世の中はそういう人を求める環境にどんどんなりつつあると私たちは考えているからです。」

                   如何ですか。私は全く異論はありません。もちろん、誰も完成型ではありませんから、一歩ずつ、そういう姿を目指して日々を過ごしてゆけば良いのだと思います。「人の喜びや悲しみを想像し共有できる感性」を自分が持てているかどうか、ひやっとする部分が正直あります。人の想いやその行動の背景を聞き取ろう、感じ取ろうとする姿勢だけは失わないように自戒してゆきたいと思います。
                   しかし、何かを突破しようとする時には、その強いエネルギーの陰に細やかなものをかき消してしまうことがあるように思います。役割を貫徹するためには、意図的にでもその爆発エネルギーが必要になることもあるのですが、その中においても、逆風も含めてからだを開いて受け止めるしなやかさを見いだしたいとも思います。なかなか難しいことですが、どうやら「捨てる・放す」ということが、その一つのヒントになりそうな感じがしてきています。役割・目標を貫徹させながら捨てる・放す。なんだか矛盾の固まりみたいなテーマですが、一つのものなのかもしれません。

                   さて、今日の出来事の報告です。午前中は京丹後市の互礼会。終了後、昼にかけて、議会広報紙に載せる私の一般質問原稿の件で、議長と話をしました。私の一般質問原稿が、生々しすぎるだとか、広報誌にふさわしくないなどの意見があり、議長から私にヒアリングと調整があった次第です。午後の代表者会の議題にもなっているようですが、結果は聞いていません。私としては、議会の良識を期待したいと思います。(逆の見方では、私の良識を期待するということになるのでしょう。)いずれにしても、抹消の問題に目を奪われず、本質の問題に取り組むべき段階だと思うのですが。

                   この件に関しては、代表者会、議長の判断を受けて、私なりの考えを整理してアップします。現状は、原稿を変更すべきと言う意見に説得力を感じていませんので、そのままの原稿を出させて頂き、編集委員会や最終発行責任者の議長が、原稿を変更するなり、黒ベタにするなり、編集権としてして頂く分にはかまわないという趣旨をお伝えしてあります。指摘を受けている部分は、議事録でいうなら、下記リンクの部分です。
                         議事録リンク

                   なお、会派解散に伴い、会派からの選出で担当している、議会運営員、広報編集委員は辞任することとなりました。

                   正月休みも終わりました。エンジンをかけます。


                  2006年1月2日(月曜日)

                  「国家の品格」と京丹後市

                  カテゴリー:
                    - 早川まさてる @ 12時37分55秒

                     元旦に、下記のような文章を「ご挨拶」コーナーにアップさせて頂きました。その後、朝日新聞を見ると「武士道をどう生かす-内外のいらだち-他者への哀れみは-品格を競いたい-」という社説があり、なんだかタイミングが良すぎてうなっています。

                     今朝にかけて、藤原正彦著「国家の品格」を読みました。「我が意を得たり。正にここから始まる。」という読後感を持ちました。少し、コメントさせて頂こうと思います。

                     まず、朝日の社説について。情けない。大朝日の論説委員が、それも元旦の社説にこの程度の論旨の読み方と表現になるというのは、寂しいものがあります。「品格を競いたい」という見出しで語るのであれば、また、文章に引用の形でなくその内容を使うほどであれば、著者が表現したい本旨をきちんとふまえた扱い方をするのが品格ではないかと思います。

                     具体的には、最近のナショナリズム傾向や靖国参拝などに対し<「武士道精神に照らし合わせれば、これはもっとも恥ずかしい、卑怯なこと」(藤原氏)だった日中戦争に、いまだけじめがつかないのでは話にならない>という形で引用しています。
                     藤原氏は、P113-愛国心の二つの側面-の中で、「日本ではあまりよいイメージで語られない「愛国心」という言葉には、2種類の考えが流れ込んでいます。ひとつは「ナショナリズム」です。ナショナリズムとは、他国のことはどうでもいいから、自国の利益のみを追求するという、あさましい思想です。(中略)一方、私の言う祖国愛は、英語で言うところの「パトリオティズム」に近い。パトリオティズムというのは、自国の文化、伝統、情緒、自然、そういったものをこよなく愛することです。これは美しい情緒で、世界中の国民が絶対に持っているべきものです。(中略)この2つを峻別しなかったため、戦後はGHQの旗振りのもと、戦争の現況としてもろとも捨てられてしまいました。我が国が現在、直面する苦境の多くは、祖国愛の欠如に起因すると言っても過言ではありません。」と述べています。
                     新年にあたって、論説の花である社説で語るのであれば、今の混乱を発展的に解消する切り口を提起する方が好感が持てます。自分の主張してきた立場を補完する一部分を強調し、その立場の根幹に関わる部分を無視してしまうあり方は、あまり品格を感じません。発展的でもないでしょう。マスコミが第三の勢力としてどころか、第一の勢力となった現代においての役割を考えると、その論調、ものの見方、組み立て方は、最高レベルの品格を求められるのではないかと考えます。

                     藤原氏は、作家の新田次郎氏の次男でお茶の水大学理学部教授。数学者です。「国家の品格」の中で、近代的合理精神、論理の限界を理論的に提示し、自由・平等・民主主義は「欧米が作り上げたフィクション」として疑問を提起しています。そして、「情緒と形」「武士道精神」の重要性を述べています。私も以前から「理路整然と間違う」という表現の中で、理屈が必ずしも正しいわけではないことなどを言ってきましたが、その根拠を見事に提示してくれています。また、思いこみで見えなくなっている「穴」をクリアに見せ、論理のバックグラウンドとなる大局観、倫理観、情緒、形が極めて大切であることを気が付かせてくれます。

                     一部を引用させて貰いましょう。

                     P.126 父の教え
                    「私にとって幸運だったのは、ことあるごとにこの「武士道精神」をたたき込んでくれた父がいたことでした。父からはいつも「弱いものいじめの現場を見たら、自分の身を挺してでも、弱い者を助けろ」と言われていました。
                     父は「弱い者がいじめられているのを見て見ぬふりをするのは卑怯だ」というのです。私にとって「卑怯だ」と言われることは「お前は生きている価値がない」と言われるのと同じです。」

                    「父は、「弱い者を救うときには力を用いても良い」とはっきり言いました。ただし5つの禁じ手がある。一つ、大きい者が小さい者をぶん殴っちゃいかん。二つ、大勢で一人をやっつけちゃいかん。三つ、男が女をぶん殴っちゃいかん。四つ、武器を手にしてはいかん。五つ、相手が泣いたり謝ったりしたら、すぐにやめなくてはいかん。「この五つは絶対に守れ」と言われました。しかも、父の教えが非常に良かったと思うのは、「それには何の理由もない」と認めていたことです。「卑怯だから」でおしまいです。」

                     P.128 卑怯を憎む
                    「私は「卑怯を憎む心」をきちんと育てないといけないと思っています。法律のどこを見たって「卑怯なことはいけない」なんて書いてありません。だからこそ重要なのです。(中略)ある国の子供たちは、「万引きをしないのはそれが法律違反だから」と言います。こういうのを最低の国家の最低の子供たちといいます。「法律違反だから万引きしない」などと言う子供は、誰も見ていなければ万引きします。法律で罰せられませんから。大人になってから、法律に禁止されていないことなら何でもするようになる。時間外取引でこそこそ株を買い占めるような人間がどんどん生まれてくる。」

                     私は、親父として自分の子供たちにこれをたたき込みたいと思います。たたき込める生き様でいたいと思います。そして、できれば地域の子供たちにも。

                     「国家の品格」を読んでいるときに、ふと気が付きました。この藤原正彦氏と私(早川)は、共通の「父」に育てられている。驚くべきことですが、はっきり意識しました。

                     私は、中学高校時代、ワンダーフォーゲル部に属し、いつも山歩きをしていました。そして学校の図書館に新田次郎氏の山岳小説があり、次々に読んでいた時期があります。大好きでした。その登場人物に感情移入し、自然感を感じ、生き様、死に様を感じていたのだと思います。新田次郎氏は、氏の倫理観、武士道精神、自然感を息子の正彦氏にも注ぎ込んだでしょうし、その作品にも登場人物に託して注ぎ込んだに違いありません。自立を始める多感な中学生の頃、その息吹を感じていた私が、藤原正彦氏の「国家の品格」に親近感を覚えるのは当然なのかもしれません。

                     私は、この本は必読書だと思います。私に興味を持って頂ける方ならば、おそらくなにがしかのピンと来る部分はあるに違いないと思いますし、私のものの見方、論理の組み立ても、「ああ、あの意味で言っているのだな」などとわかりやすくなるかもしれません。是非是非おすすめします。新潮新書141番、680円です。

                     そして、もう一冊、おすすめします。(と言いながら、まだぱらぱらしか見ていませんが) 

                        「古伝空手の発想–身体で感じ、「身体脳」で生きる–」
                            宇城憲治監修 小林信也著 光文社新書229番 700円

                     監修者の宇城師範とは2度お会いしています。ぼろぼろに指摘を受け(目が政治家の目になっている、何かを伺うような、遠慮するような気配になっている・・・・)、「今度お会いするまでにどこまで自分でやれるか、やってきます」と宣言して帰ってきたのですが、まあ、少しは始末できた気はしています。おそらく、品格を支える体のあり方、形、伝統、自分をわきまえることなどについて、具体的実践を伴ったヒントを与えてくれるものだと直感しています。

                     実は、共に12月29日に網野の本屋さんで見つけました。ヒントやチャンスは足下にも転がっているのだと感じます。

                    引用:

                     あけましておめでとうございます。激動の平成18年がスタートしました。「国家の品格」という本が大ヒットしています。そして、世界の中での日本の位置付けが低下する一方、日本という国家の中も伸びる都会と沈む田舎という2極化が急速に進んでいます。

                     高齢化が進み、人口も急速に減少する中、ひょっとすると2極化の中の下をはいずるかもしれない中で、我々が丹後の地で生きてゆくということはどういうことなのか。私は、この地で生きるということの中に、如何に品格を持つか、すなわち、誇りを持てる地域を創り続けようとするか、生き方としても誇りを持てるあり方を模索するかが問われてくるのではないかと感じています。

                     お金の多少や地位の高低に振り回されるのではなく、きちんと品格をわきまえながら、チャレンジをし続ける、そんなあり方を求め続けてゆきたい。これが、年頭にあたっての私の決意です。


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